真宗会館で手に取った「サンガ」にはまたしても意味不明なことが書かれていた。狐野秀存という大谷専修学院院長の書いた記事である。
と書かれていた。それが根拠としているのは一体何なのだろうか?無量寿の「寿」を「いのち」と読み換えるのが常習化しているのが大谷派であるが、その読み方はほとんど無理がある。
いのちは親鸞の言葉でいえば、「回向のいのち」である。
?????出典は??????そんなことどこにも書かれていない。
いのちは、いのちそれ自身からのプレゼントだということだろう。
いのちはいただいたものであるらしい。「生かされている」ということだろうか。一体誰に?それは仏だろうか?では、いのちが終わるときはどうなのだろうか?死なされたのだろうか。ここでの言い逃れの道筋は予想できる。 死とは「いのち」の終わりではなく、「いのち」とはもっと広いものを対象とした言葉であって、死は「いのち」の終わりを意味していない、と言うのだろう。でも「いのちを大切に」という言葉はどう考えても生命を指すものとしか考えられないし、それ以外のものを指すのなら「いのち」と言わずに「念仏」や「教え」、「本願」と言えばいい。
ロマン主義から派生した大正生命主義を自覚ないまま、大谷派は継承し続けている。それでもいいではないか、という者もいるかもしれない。最もその思想が抱える問題を知らない者だけがそう言うことができるのだが。
「いのちを大切に」できなかったものはどうなるのだろうか。人殺しは?自殺者は?屠殺の仕事をする者は?戦場で戦った者は?「いのちっていうのはそう言う意味ではない」と言う人がいるが、注釈をつけなければならないような言葉をスローガンのように使うのはいかがなものだろうか。
この「いのちは誰のものか」といういのちの原点があいまいなままで、「いのちを大切に」と無造作に言ってしまえば、それは強者の押し付けになってしまう。
「いのちの原点」が存在するのだろうか?生は迷いの果てであるというのが仏教の基本的な姿勢であるはずなのだが、この「いのちの原点」を強調するのは一体何なのだろうか?それは崇高で素晴らしいものなのだろうか?「いのちの原点」が明らかになったとされたら、それは全体主義へ急降下する。ナチズムにおいてはそれはゲルマン民族であり、戦前戦中の日本では天皇だった。
いのちの原点があるなら、それは仏教としては無明と答えるべきではないだろうか?
専修学院院長だそうだが、彼が語っているのは仏教なのだろうか?