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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

蓮如に対する誤読、仏の存在論:平野修「留守番か骨董品か」(2018年版『真宗の生活』)

蓮如上人は「聖教は読みやぶれ」「本尊は掛けやぶれ」ということばを残しているらしい。これは大谷派では自分がお参りするときにだけ名号を掛け、他の時には仕舞っておくと解釈されているようだ。

そこで蓮如上人は、ようのないときには、つまりお参りする本人がいないときには御本尊は巻き上げておくか、お内仏ですよ巻き戸は閉めておくのだ、と。つまり自分を抜きに、仏さまということはありえないんだ、ということをお示しになられたのですね。骨董品なら、自分抜きでも成り立ちます。しかし、蓮如上人の教えられたことから言いますと、自分自身がいないところに、仏さまはいないのだということになります。

 「本尊は掛けやぶれ」というのは本当にそんな意味なのか。蓮如上人が生きた時代、いまのように各々門徒たちが仏壇を持っていたとは考え難いし、名号の掛け軸もみんながみんな持っていたとは考えられない。時代背景に関する知識がないため定かではないが、この蓮如の文は「名号の掛け軸をいろんなところに持ち運び、掛ける」という意味なのでは?つまり、お参りするときには広げて、しないときには仕舞うという意味ではないように思われる。聖教はただ置いておくものではなく、常に繰り返し読まなければならないという文の後に続くのだから、「仕舞ったり、掛けたりしなさい」という解釈は文脈上正しいとは思えない。

 蓮如であれば教えを広めるための仕掛けをするはずだから、みんなお聖教をたくさん読んで、そして講を開いていろんな人に教えが広まるようにしろというのではないだろうか。「ただ一人で仏壇を開け閉めして、お聖教が破れるほど読む」ということは蓮如の戦略からは外れるのではないだろうか。

 つまり蓮如の本意は「掛け軸を仕舞ったままにしておくのではなく、いろんな場に持っていき、講を開くべし」ということだと思う。「自分自身を抜きにして仏はいない」とかそういうくだらない仏の存在論に展開させるのはどうかと思うし、創造的な誤読とは程遠い。仏は自分が気にしてないときにも働いているのであって、私たち凡夫の意識に伴う存在ではないだろう。菩薩のような存在が「ひとりひとりの悲しみに向き合う」という表現ならいいが、平野氏の言い方だと阿弥陀如来の存在そのものが凡夫の意識に依存するものであると捉えかねられない。

 この短い蓮如の言葉すら、大谷派は「自分自身」という言葉をつかって解釈したがる。この悪癖はどこまで続くのだろうか。しかも、こんな誤読を門徒向けの冊子に載せて配布するのもどうかと思う。この平野修という方よりも、この文章を門徒向けの冊子に掲載した東本願寺出版部の方といえるかもしれない…。蓮如が教えを人々に広めようとするための言葉が、今ではみんながひとりひとりの自閉した世界の言葉となってしまっている。「ともに」というのは一体どこにいってしまったのか。

 この平野という人はきっと門徒の生活を知らないのではないだろうか。一々朝夕、名号を畳んだり、仏壇の戸を閉じたり、そんな煩わしいことを強制していては門徒はもはや仏壇に手をつけるをやめてしまうのではないだろうか。こんな作法の押し付けは大きなお世話でしかない。そもそも蓮如親鸞がそんな細かいことを口うるさく人に教えるとは思えないのだが、読者諸君はどうだろうか。毎朝お花やお供え物を仏壇において、そして戸を閉めるものはいるのだろうか?私はいないと思う。