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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

仏像は売ってはいけないのか?:『ともしび』3月号「法宝物」上場顕雄

『ともしび』3月号の「聞」には教学研究所嘱託職員の上場顕雄という方の文章が掲載されていた。趣旨は、本尊や名号といったものは骨董品ではなく「法宝物」、教えや法を伴うものであり、それは売買してはならないというものであった。私自身は別に売ってもいいと思っている。

本尊を売るということ 

上場によると本尊は骨董品ではないという観点から売ってはならないそうだ。

本堂内陣で長い間、荘厳され給仕されてきた掛軸などは、延べ何千人、何万人の門徒・参詣者が掌を合わせ崇敬してきた歴史や重みがある。単なる古い品物ではない。 

確かにその通りだ。仏像や掛軸は単に古い品物ではない。ずっと相続されてきたものであり、それは古さに値打ちがつけられるものではなかろう。しかし以下からの主張には同意し難いものがある。

それらの荘厳と共に寺院生活をしてきた寺族が品物として処分する心境はいかがなものであろうか。 それ以前に真宗人として、宗祖の門徒として「法宝物」に給仕してきたことが何であったかが問われよう。

果たしてここまで断言できるだろうか。「荘厳を売らなければならない状況」というものは殆ど想像を絶するもののように思われる。それが金目的で卑しいものであったとして、仏具を売らなければならないほど困窮する状況が存在するのである。これを書いた上場という人も「やむをえない事情があったであろうと推測する」と述べているが、そのように推測しながらも売ってはならないと断言しているが、心のない言葉のように聞こえる。

売ってはならない仏像を何らかの形で処分するには? 

売ってはならないのならば、本尊等は本山(東本願寺)に返却(?)しなければならないのだろうか?上場氏は「返却すべき」と記している。

真宗寺院所蔵のそれらは、廃寺になる場合には本山に返却するのが本来であろう。 

はたしてそうだろうか。本山に返却したところで本当に丁重に扱われるのかどうかは不明である。おそらく倉庫かどこかにおいやられるような気がする。そう考えると、あまり仏具や掛軸にとってはいい待遇であるようには思われない。しかも、親鸞自身は「売ってはならない」とか「しかるべき場所に戻せ」とか、そんな風には思っていなかったということが口伝鈔にもちゃんと書かれている。口伝鈔にはこう書かれていた。

弟子同行をあらそい、本尊聖教をうばいとること、しかるべからざるよしの事。常陸の国新堤の信楽坊、聖人親鸞の御前にて、法文の義理ゆえに、おおせをもちいもうさざるによりて、突鼻にあずかりて、本国に下向のきざみ、御弟子蓮位房もうされていわく、「信楽房の御門弟の儀をはなれて、下国のうえは、あずけわたさるるところの本尊をめしかえさるべくやそうろうらん」と。「なかんずくに、釈親鸞と外題のしたにあそばされたる聖教おおし。御門下をはなれたてまつるうえは、さだめて仰崇の儀なからんか」と云々 聖人のおおせにいわく、「本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだ、しかるべからざることなり。そのゆえは、親鸞は弟子一人ももたず、なにごとをおしえて弟子というべきぞや。みな如来の御弟子なれば、みなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すと、みえたれば、まったく親鸞が、さずけたるにあらず。当世たがいに違逆のとき、本尊・聖教をとりかえし、つくるところの房号をとりかえし、信心をとりかえすなんどということ、国中に繁昌と云々 返す返すしかるべからず。本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞がむつびをすてて、他の門室にいるというとも、わたくしに自専すべからず。如来の教法は、総じて流通物なればなり。しかるに、親鸞が名字ののりたるを、法師にくければ袈裟さえの風情に、いといおもうによりて、たとい、かの聖教を山野にすつ、というとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくわれて、ことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし。凡夫の執するところの財宝のごとくに、とりかえすという義、あるべからざるなり。よくよくこころうべし」とおおせありき。

本尊は流通物であり、たとえ山野に捨てても、その場所の有情たちがそれに救われるのだから良いと書かれているし、親鸞自身すら「自分が授けたわけではないから、取り返す必要はない」といっている本尊なのだから、ましてや東本願寺が取り返さないといけないという謂れは全くない。

第一、売買がだめなら東本願寺こそ定価で本尊を売るべきではないのでは?

東本願寺が無償で寺院に配布したのならば、百歩譲って本山に本尊を返却すべきだと言えるかもしれないが、しっかりと金銭で取引したものを「本来は本山に返すべきだ」というのはいただけない。

第一お金のやり取りで骨董品や商品のように仏像や名号をやり取りすることを禁止すべきならば、本山こそ定価で仏像や名号を売ることをやめて懇志にすべきであると思う。オークションや金銭の取引で仏像が広まれば、それはそれで流通し、いいではないかと思うし、そのような経緯で手に入れた仏像をとても大事にしている人を私はたくさん知っているので、それが悪いこととは全く思わない。本山で適当にどこかに押しやられるよりは、どんなかたちであれ人の世で出回っている方が断然いいと思う。

記事の最後にはこのように書かれていた。

残念で嘆かわしいことである。あらためて、真宗の教えに依拠した生活・日常を考えたいものである 

 と書いてこの記事は終わっているが、上で書いたような理由から「真宗の教えに依拠する」ならば仏像を売ることが悪いこととは言えないと私は思う。本尊は骨董品ではない、ということは間違いではないが、考えもなしに安易に主張することで東本願寺真宗から遠ざかっている。過去に平野修についての記事について書いたが、それも同じであろう。

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