What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

ナショナリズムの克服を門徒に押し付けるのか:「ともしび」2019年11月号楠信生の「一大事の御客人」を読んで

「御門徒に育てられる」 楠信生という方の書いた「一大事の御客人」という文章にあった門徒観に少し違和感があったので少し考えてみることにした。氏は「御門徒」について以下のように述べている。 「御門徒」という言葉にはいろいろな響きがあります。 かつ…

佐野明弘氏の「衆生減尽」における差別性

「やまゆり園事件」以降、法話で障がい者差別について語る僧侶が増えてきた。しかし、機会が増えてきたとはいえ語るにあたっての思慮や考察があまり十分ではないと思ってしまうことがほとんどでがっかりしてしまうことが多い。今回は2019年9月号『ともしび』…

孤野秀存の母親に対する幻想

2020年版の教化冊子『真宗の生活』が届いたので少し読んでみたが、最初の孤野秀存という大谷専修学院長の言葉だけがあまりよくなかった。母親と阿弥陀如来を同一視するハラスメントがまたもや展開されていた。どうやらこの専修学院、私とは宗教宗派が違うよ…

自己反省に歯止めをかけてくれ

『真宗』2019年5月号を読ませていただいた。そのなかの「悪しきこころをさかしくかえりみず」というコラムがとてもよかった。気がついたら書いた方は中山善雄という研究員で、当ブログで「これはよかった」という記事で紹介したのもこの方が書いた文章であっ…

「問う」とは「それを問題とみなす」という意味なのだが

『真宗』2019年4月号に「それぞれの往生際」というコラムがあった。 人は様々な死の迎え方をしてきた。『往生際の日本史ー人はいかに死を迎えてきたのか』(小山聡子、春秋社、2019年)には、現代にまで影響を与え続けている「末法」という仏教的な歴史観を…

母性と仏について:『花すみれ』を読んで思うこと

ジェンダー問題にも積極的に取り組みたい姿勢を見せる本山だが、それがただのパフォーマンスなのかどうかは日頃の行いによって判断される。その上で言わせてもらえば、未だに本山はジェンダーに関するリテラシーを著しく欠いている。まだ発展途上なのかもし…

凡夫と自己責任

先日届いた彼岸用の冊子を読んでいると、少し気になることが浮上した。凡夫であることの自覚と自己責任は同じなのかという問題である。現代では冷徹な自己責任論が幅を利かせ、当然他方でそれに反対する言説も多く生まれている。自覚と自己責任が同一である…

高度経済成長期から更新されない「現代」

今回は2019年1月号の「ともしび」の〈聞〉のコーナーに書かれていた「『現代の聖典』に思う」(花山孝介)について批評したい。しかし、特に新しい考えをいうつもりはない。いつも思っていることを書こうと思う。 私たちが求める幸せとは、何を根拠にしてい…

弱さを弱さとして認めることができる教え(中山善雄氏が書いた『ともしび』[2018年8月号掲載]について)

「ただのいちゃもんつけのブログだろ」って思われるのは癪だから(思われてもなんの問題もないのですが)、今日は初めて「これはよかった」と思える文章について書こうと思う(批判とは否定とは違うのだから)。それは中山善雄という人が書いた文章だった。 …

初心者と一緒にいれない熟練者とは?プロ門徒?

先日見ていたインターネット記事にこのようなタイトルのものがあった。 初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性【堀内克彦】 | リレーコラム|浄土真宗の法話案内 「浄土真宗の法話案内」というサイトのなかにあるリレーコラムのページだそうだ。…

「人のこと言う前に自分はどうなんだ」という典型的なダメ思想:武田未来雄「経教の鏡」(「ともしび」10月号)

先日読んだともしびに書かれていた武田未来雄という方の記事に違和感があったので久しぶりに記事を書いてみたい。 そして、批評のまえに少し準備体操として別の話題を振っておきたいのだが、当ブログにはたまに「貴方は親鸞会ですか?」という質問が届く。(…

コメントを頂きました③

以下の様なコメントを「たかし」さんという方から頂きました。伊東恵深氏について書いた記事に対するコメントです。 「このままでよい」との声は、私の声ではなく、如来からの声でありましょう。 伊東氏も貴方も、いずれも教えをいじりすぎです。 私は「この…

どんどん形骸化していく「ともに」:「或る捨身の記録から」青柳英司(親鸞仏教センター通信)

「親鸞仏教センター通信」第66号の表紙に載っていた文章を見てみようと思うが、そこに見えたのは「ともに」あるいは「関係性」という話の“限界”である。 「或る捨身の記録」からという題名の文章で、書いたのは青柳英司という親鸞仏教センター研究員の人だっ…

都会のお寺、転落の時代

今日は批判っていう感じではなくて、ただの憂さ晴らし記事を書いておく。まずはこのブログを読んでほしい。 2012年の記事だが、端的に言って「ざまあみろ」って感じしかない。私も首都圏の寺の僧侶だが、都市の寺院の住職の威張り様と傲慢さといったら天井知…

昼寝をやめさせようとする宮城顗

先日届いた「真宗の生活」にはこんなことが書いてあった。 自分の死、この私が死ぬということを知らされたら、一日足りとて、それこそごろごろと昼寝はしていられません。たとえ一瞬でも、かけがえのない一瞬になります。初めて自分のいのちを大事に、自分と…

冷たくなった大乗仏教:本多弘之氏の「親鸞思想の解明」について

このどうしようもないブログも細々と続きながら、アクセス数はなぜか異常な程多い。一体どんな人が見ているのか皆目検討がつきませんが、皆様は仏の四十八願をちゃんと言えますか?在家の人はさておき、僧侶や寺族には漏らさず知っておいて欲しいところ。 そ…

大谷派におけるジェンダートラブルについて〜「女性室」の無意味さ〜

今日は「ジェンダー」の問題について考えてみたいと思います。#Metooや政治家のセクハラ問題など敢えていうまでもなく社会の中で性差別は重大な問題なのですが、現在でもなかなか性差別の問題が是正されていないのが大谷派です。大谷派で女性の得度や住職就…

大谷派の「寺院活性化」へ物申す

先日しんらん交流館から頂いたたより(2018年3月31日発行)には「寺院活性化支援室」なるものの紹介がされていました。過疎や人口減少に伴う寺院の斜陽が問題となっている昨今ですが(そもそも寺院や僧侶を不要とする社会の流れの元凶を「過疎」「人口減少」…

念仏の不在が蔓延する大谷派…:「僧侶の法話」田中顕昭

先日、真宗会館の日曜礼拝の法話が紹介されていた。 kotonoha.shinshu-kaikan.jp 田中顕昭という方の法話だそうだが、この法話のキーワードは「“たい・たら・ぶり”は往生のさまたげになる」だそうだ。 「たい」は「ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こ…

仏像は売ってはいけないのか?:『ともしび』3月号「法宝物」上場顕雄

『ともしび』3月号の「聞」には教学研究所嘱託職員の上場顕雄という方の文章が掲載されていた。趣旨は、本尊や名号といったものは骨董品ではなく「法宝物」、教えや法を伴うものであり、それは売買してはならないというものであった。私自身は別に売ってもい…

「いのち」は親鸞の言葉なのか?:「サンガ」vol.152(狐野秀存「回向のいのち」)

真宗会館で手に取った「サンガ」にはまたしても意味不明なことが書かれていた。狐野秀存という大谷専修学院院長の書いた記事である。 仏教は、特に親鸞が明らかにした浄土真宗の仏教は「いのちの宗教」だといえる。 と書かれていた。それが根拠としているの…

「先生」という隠語としての延塚知道:2018年度『お彼岸』冊子(「出遇い」寺林彰則)

久しぶりにブログを書いてみよう!今回は『お彼岸』冊子を読んでみることにします。こういう冊子がくると、ほんとうに批評しがいがありますし、内容がよければ注文して門徒さんたちにも配りたいなあと常々思っています。でも、今回はあんまりよくなかったな…

「縁起」とは単に反実体的なのか?:大江憲成(2018年版『真宗の生活』)

「縁起」の言語はpratiya-samutpadaプラティートヤ・サムウトパーダで、 pratiyaは「〜に縁って、〜に依存して」、samutpadaは「共に生起していること」です。つまり縁起とは、物事がさまざまな事柄、はたらきを「縁」として共に関係しあいながら「起」こっ…

蓮如に対する誤読、仏の存在論:平野修「留守番か骨董品か」(2018年版『真宗の生活』)

蓮如上人は「聖教は読みやぶれ」「本尊は掛けやぶれ」ということばを残しているらしい。これは大谷派では自分がお参りするときにだけ名号を掛け、他の時には仕舞っておくと解釈されているようだ。 そこで蓮如上人は、ようのないときには、つまりお参りする本…

ブログへのコメントをいただきました その②

当ブログに以下のコメントが寄せられたので、返信いたします。 はじめまして。 以前、たまたまこのサイトを見つけまして、それ以降、定期的に拝見しております。小生は真宗大谷派の僧侶です。 別の方のコメントに対して、お答えがあったものですから、以前か…

楠信生という教学研究所の所長について:その②

www.chugainippoh.co.jp 北海道教区の若手僧侶の育成機関・北海道教学研究所長や、教学研究所の教化伝道研修第2期研修長などを経て8月に就任。「教学研究所は大学の研究所とは違う。常にご門徒の存在を感じながら研究を発展させてほしい」と願う。 「教学研…

岸見一郎を持ち上げて何か意味はあるのだろうか?:「親鸞仏教センター通信」63号

「現代と親鸞の研究会」の欄に、哲学者・岸見一郎の話が載っていた。岸見一郎は、ギリシア哲学の専門ではあるが、最近ではアドラー心理学を一般に広めた学者として有名になった人物である。この学者を起用した研究会の様子が「親鸞仏教センター通信」に掲載…

ブログへのコメントをいただきました

当ブログに初めてコメントが届きました。以下の通りです。 はじめまして。 たまたま通りがかった者です。 ブログを拝見させて頂きました。 批判的に物事を見ていくということは大変大切なことだと思いますが、世界中の人が自由に見ることができるインターネ…

中島岳志著『親鸞と日本主義』には「親鸞」が不在である。

今回は朝日新聞に面白い書評があったので、それを紹介したい。10月1日の書評の欄に中島岳志著『親鸞と日本主義』についての書評があった。この中島岳志は大谷派で盛んに用いられており、宗派からの配布物には毎月のように彼の名前が載っている。しかし私は、…

「問い」を語り、硬直する:名和達宣『真宗』10月号、教研たより

私はもはや「問う」ということを大事にするという風潮に飽き飽きしている。何百回、「問いが大事」という話を聞かされたのだろう。「聞法が大事」と法を聞きにきている人に対して乱発する無意味な法話と同じくらい、質量が感じられない。 「問い」「問い」「…